「松川事件」をご存じですか

「松川事件」をご存じですか 事件発生から全員無罪までの流れ

 

①松川事件の発生
 1949 年8月17日未明、東北本線上り普通旅客列車が脱線転覆。3人の乗務員が死亡するという重大事故が発生しました。これが松川事件です。事故の原因は、なにものかによる線路破壊でした。

 捜査当局は、事件の容疑者を国労福島と東芝松川の労働者と断定し、それぞれ10人づつ、計20人を逮捕・起訴しました。彼らは、なぜ疑われ、狙われたのでしょうか。


②1949年…国内外が極度の緊張状態
 当時の日本は、アメリカ主導の占領下にありました。この時期、アメリカは対日政策を大きく転換し、当初の民主化政策を捨てて、日本を極東の軍事拠点につくり変えることにしました。そこで混迷を深める日本の政治・経済・社会情勢を立て直す政策を断行します。赤字予算を解消するための公務員大幅削減、民間企業への補助金の打ち切りなど。こうした首切り・合理化に対する闘争の先頭に立っていたのが国労と東芝労連でした。7月には下山事件、三鷹事件が発生し、闘いは大きく後退。それでも闘いを続ける福島の国労、東芝松川に決定打をあびせようとしたのが松川事件でた。


③松川裁判…全員有罪から全員無罪へ
 松川裁判では、占領軍による露骨な鑑賞がありました。裁判の冒頭で検察官が描いた事件の構図は、被告らが一連の謀議を重ねた末に5 人が現場に行って線路破壊を行ったというものであり、検察側は死刑10 人を含む全員有罪を求刑しました。
 5回に及ぶ判決の結果は次の通りです。

第1審、福島地裁  1950/12/06   全員有罪(死刑5 人など)
第2審、仙台高裁  1953/12/22   17 人有罪(死刑4人など)、3 人無罪
第3審、最高裁     1959/ 8/10    原判決破棄、高裁差し戻し
第4審、仙台高裁  1961/ 8/ 8     全員無罪
第5審、最高裁     1963/ 9/12     無罪確定

  

④松川事件国家賠償裁判…権力犯罪を裁判所が認定
 そして裁判は、さらに続きます。元被告や家族が国の責任を追及する損害賠償請求訴訟(国賠裁判)です。
第1 審、東京地裁1969/ 4/23 原告勝訴
第2 審、東京高裁1970/ 8/ 1 原告勝訴
 そのため、国は上告を諦め、判決に従うことになりました。(了)

松川記念塔公園の風景     写真クリック→画面大

「松川の塔」は、1963年9月12日、被告全員が無罪になったことを記念し、1964年9月に建立されました。来年9月で半世紀を迎えます。

 1993年9月11日、東京・日仏会館で「松川事件無罪判決確定30周年記念集会」が開催されました。この翌日、「松川記念塔公園」開園式が行われました。公園内の桜、紅葉などの木々は、訪れた人に、四季の変化伝えています。